日本で蒸留された初めてのジャパニーズウイスキーは昭和4年(1929年)に誕生しました。その20年後、戦後間もない昭和24年(1949年)にマルスウイスキーの歴史は始まります。高度経済成長期の昭和30年~40年代には、仕事帰りに立ち寄って気軽にウイスキーを飲めるスタンドバーが流行するなど、日本でもウイスキーが定着しはじめ、やがて日本各地で独自のウイスキー造りをはじめるという「地ウイスキー」ブームが起こります。 製造規模が小さいながらも地道に個性豊かな地ウイスキー造りに努め、1980年代の地ウイスキーブームの火付け役とも言われました。
鹿児島で始まった蒸留は、本格的なウイスキー造りの理想の地を求め、昭和35年(1960年)からの山梨時代を経て、昭和60年(1985年)に長野県駒ヶ岳山麓のマルス信州蒸溜所と、平成28年(2016年)に新設された本坊酒造発祥の地である鹿児島県津貫のマルス津貫蒸溜所へ受け継がれています。
スコッチウイスキーを手本としたジャパニーズウイスキーは、日本人の繊細な香味嗜好に合わせて製造技術の向上に努力し、その結果、今では世界5大ウイスキーの1つに数えられるまでになりました。
国産ウイスキーの生みの親として知られる故竹鶴政孝氏。 当時、24歳だった竹鶴氏に日本の本格ウイスキーの夜明けを託し、上司として彼を英国に送り出した男。その人こそ、マルスウイスキーの生みの親、故岩井喜一郎氏です。
竹鶴氏は、スコットランドにおけるウイスキー研修の結果を「ウイスキー報告書」にまとめ、岩井喜一郎氏に提出しました。それこそ、後に国産ウイスキーの原点となった「ウイスキー実習報告書」通称「竹鶴レポート」です。
マルスウイスキーは、その岩井氏の指導のもとに設計されたポットスティルによって造られた原酒を元に誕生しました。以来、ひたすらに正統スコッチウイスキーを超えるべく、原点に忠実に、本物のウイスキー造りに情熱を注いでいます。
スコッチウイスキーの流れを組むジャパニーズウイスキーは大きく分けてモルトウイスキーとブレンデッドウイスキーの二つに分かれます。
大麦麦芽を原料として蒸留されたモルト原酒だけで製造されたモルトウイスキー。そして、モルト原酒にその他穀類などを原料にして蒸留されたグレーン原酒をブレンドして製造されたブレンデッドウイスキー。
二つの蒸溜所の異なる原酒と、三つの環境で熟成されるマルスウイスキーは、ブレンデッドウイスキーを初め、個性的なシングルモルトなど、希少なウイスキーを生み出しています。
一升瓶に詰められた個性的なブレンデッドウイスキー「マルスエクストラ」、一つの蒸溜所のモルト原酒のみを使用したシングルモルトウイスキー「駒ヶ岳」「津貫」、シングルモルトの中でも更に希少な一つ樽のモルト原酒のみを使用したシングルカスクウイスキー「ル・パピヨン ※一部ダブルカスク」など、全国のウイスキー愛好家の方々に、日本のウイスキーとして愛される商品を造り続けていきます。
1985年、本坊酒造は「いつか日本の風土を生かした本物のウイスキーを造りたい」という夢を実現させるために、長野県中央アルプス駒ヶ岳山麓標高798mの地にマルス信州蒸溜所を開設しました。
2020年にリニューアルされた蒸溜所は見学可能となっており、普段見ることのできないポットスティル、ウイスキー製造設備、原酒の貯蔵庫など、マルスウイスキーの歴史と魅力を感じていただけます。
蒸溜所内のショップではウイスキーの試飲や、マルスウイスキー・ワイン・長野県特産のお土産品を販売しております。
南さつま市加世田「津貫」。ここ薩摩半島南西の緑溢れる山あいの中に佇む、本土最南端のウイスキー蒸溜所「マルス津貫蒸溜所」。
薩摩半島南西部に位置する津貫は、万之瀬川支流の加世田川に沿って長くのびている盆地にあります。東を蔵多山(475m)山系、西を長屋山(513m)山系の山々に囲まれ、地形が盆地状のため、夏は暑く、冬の寒さは、南薩摩にあっては、ことのほか厳しい地域です。
良質な水資源(蔵多山湧水)もあり"天の恵み"といっていいほどの自然環境を有し、山の傾斜地を有効に利用したみかん栽培も盛んで、"津貫みかん"として知られています。
温暖な気候と良質な水資源に恵まれる津貫は、本坊酒造発祥の地。薩摩を代表する特産物「さつま芋」を使って焼酎造りを始めてから百有余年、この土地の水と気候風土を知り抜き、酒造りの伝統を今に伝える津貫の地で、ウイスキー造りに取り組んでいます。